カナメスタジオ
自作小説書いたり同人誌出したりするところ。

『砂漠の海と銀の月(2008.4.10)』

第七章

「考え直して頂けましたか?」
  昼過ぎになって、姫の部屋にゴルが訪ねてきた。昨日と同じで、ゴルは一人でやってきている。
  姫の後ろに控えながら、アーニャは多少の余裕を持ってゴルを観察していた。
  二日続けてゴルがやってくるのは初めてのことだったが、言うことは昨日とあまり変わらない。カフェ=ティリタイが見つかったという話は今もまだ聞いていないし、ゴルも焦りを感じているのだろうか。ゴルは相変わらずの笑顔で、諦めるつもりも無ければ無理強いするつもりも無いことを強調した。
「……昨日の繰り返しになりますが、私は今や、自分個人の考えで物事を決められる身ではありません。ですから……」
  凛々しく答えてはいるが、姫の声は昨日と比べて少し弱々しい。数日前であればアーニャは心配でたまらなかっただろうが、今日は違う。
  後ろで聞いているアーニャには、姫の今の顔までがはっきりと想像できた。おそらく伏し目がちに、表情を曇らせているに違いない。
「ですから、私個人の判断で、求婚をお受けすることはできません。……国政に関わることである以上、この国の主だった者を集めて、彼らの意見を聞く場を設けるべきだと思っているのですが」
  姫の言葉を聞いて、ゴルが驚いた表情を見せた。
  姫の提案した集会は、実際に必要なものではある。ただ、現状として国内の有力者のほとんどがゴルに対し否定的な意見を述べようとしない以上、姫の方からこの提案が出るのは、事実上の諦めと言える。
  アーニャも姫を止めようとせず、意識的な無表情でただ後ろに立っていた。沈鬱な表情でもしてみせようかと思ったが、不自然になるとゴルなら見抜いてしまうだろう。アーニャの表情を見たのかどうか、ゴルは深く頷いた。
「なるほど……。わかりました。では、明日にでもそのような場を設けようと思いますが、いかがですか?」
「それで結構です。ただし、無用な噂は避けたいと考えています」
「わかりました。では……、具体的な理由は告げず、姫の命の下、私が各人を呼び出す、という内容ではいかがでしょう?」
「……いいでしょう。早速、お願いいたします」
  姫に言われて、ゴルは席を立った。
  アーニャは廊下でゴルを見送ったが、遠ざかっていくゴルの足取りが、昨日よりも軽いように見える。
  見送りを終えたアーニャが部屋に戻ると、姫が疲れた顔で座っていた。
「お疲れ様でした」
「うん、疲れた……。やっぱり私、演技が苦手」
「いえ、なかなかお上手だったかと……」
  さっきまでと違い、今の姫は凛々しさなど全く無い、ただの少女といった感じだ。ゴルを騙し通せた演技はアーニャから見てもなかなかのものだったが、姫はまだ演技をすることで精神的に疲れる歳だ。顔の筋肉が凝ったのか、姫は猫のように顔を撫でている。姫の急激な豹変がどこか可笑しく思えて、アーニャは少し、微笑んだ。
「あとは、カフェさんを待つだけね……」
  ポツリと言った姫の声からは、不安が感じられた。その気持ちはアーニャも同じだったが、こればかりは信じて待つしかない。
「大丈夫でしょう。……あの、アリガンという少年を信じましょう」
「そうね」
  今は信じて待つしかない。
  アーニャはただ待つだけという状態に慣れていなかったが、打てる手が極端に少ない今、それは仕方の無いことだった。

  少し眠った後、アリガンはカフェと二人で昼食を食べた。
  グランはどこかに出かけている。グランが昼間に家を出ることはあまり無いので、カフェが今夜着るための濃緑色の衣装を調達しに行ったのだろう。
  食事をしながら観察してみると、カフェは少しおとなしい印象だったが、それでも昨日と比べればずいぶん元気になった。
  昼食を終えた後、アリガンは昨日グランが用意してくれた王宮の図面を広げて、カフェに今夜の説明を始めた。
「ここが、目的地です。……お嬢様は姫の部屋に入ったことは?」
「あるよ。何回か」
「そうでしたか……。では、場所はわかりますね」
  アリガンは図面の中を指差しながら、今夜の予定を伝えた。
  カフェの運動能力などを考慮して考えたが、結局昨日と同じ順路が一番安全だという結論に辿り着いていた。
「まず、夕方に人ごみを利用してここまで移動します。そして、ここに民家があるので、この民家の屋上で夜を待ちます。そして夜になったらここから塀を乗り越えて、ここの建物を上って、屋根の上に出ます。あとは、屋根の上をゆっくりと移動して、姫の部屋の上まで移動すれば、アーニャさんが窓を開けてくれます」
  アリガンは簡潔に説明してカフェの様子を見たが、カフェは緊張し過ぎることも無さそうで、アリガンが手助けすれば特に問題無さそうだった。
「うん、わかった」
「もちろん、壁を登ったりするときはお手伝いしますので……。お嬢様なら大丈夫でしょう」
「……重いかもよ?」
  わざとらしいほど不安そうな顔で、カフェがそう言ったので、アリガンは思わず笑ってしまった。冗談だったようで、カフェも一緒になって笑っている。
「警戒は厳重ではありませんが、兵も少しは居ます。見つからないために、いくつか注意していただきたいことがあります」
  そう言って、アリガンはカフェにいくつか注意すべき点を教えた。
  まず、動かない事。闇夜に溶け込む色の服なので、たとえ見つかっても動かなければ見間違いだと思ってくれることが多い。
  次に、近くに兵が居るときは呼吸を浅くすること。呼吸は周囲の空気の質を変えてしまうため、違和感を与えやすい。
  そして、万が一捕まった場合は、自分がカフェ=ティリタイであることを告げること。この場合は全てを諦めて、身の安全を優先すること。
  カフェはいちいち頷いて、最後には、
「わかった」
  と、少し緊張しながら言った。

  ゴルの様子が、どこか嬉しそうなものに見える。
  ハドルはこのようなゴルをあまり見たことが無く、何かあったのかと尋ねた。
「姫が、やっと心変わりし始めたようでな。明日、有力者達を集めて、我々が結婚する事について、判断を求めようと言ってきた」
  事実上、それはゴルの勝ちを意味する。
  ゴルの言う事が本当なら、今回の件は片付いたも同然だった。ゴルが嬉しそうにしている理由は納得がいったが、今度は別の疑問がハドルの頭に浮かぶ。あのアーニャが、そんなにあっさりと引き下がるものだろうかと、ハドルは不審に思った。
「やけに素直ですね?」
「ああ。しかし現状、姫に打つ手は無いだろう。……兵を使ってすらカフェ=ティリタイを見つけられなかったのは、我々にとっても意外だったが。反乱などは起こしたくないと考えて我慢してきた甲斐が、あった」
  ゴルの言う通り、事実上国政はゴルが仕切っている。
  今やゴルは、役人も兵もある程度自由に動かせる。そんな状態にありながら、ゴルは実力行使をあえて避けてきた。長期的に見ればそうするのが一番楽だから、というのが、ゴルの持論らしい。
  ハドルはそんなゴルを時々甘いと感じることがあったが、それでも実際、ゴルはいつでも最終的には勝ってきた。今回もそんなゴルの粘り強さが勝ったのだと言えばそれまでのことだったが、しかしハドルにはどこか納得がいかなかった。
「……姫はともかく、あの侍女長が素直に諦めるとは思えませんが」
「気になるのか?」
「はい……。何の根拠もありませんが」
  ゴルは少しの間何かを考えているようだったが、
「派手に動くなよ」
  とだけ言った。

  陽が暮れかけている。
  カフェは昼食の後、アリガンに勧められて夜に備えて眠っていたが、カフェが起きたときにはアリガンがほとんどの準備を終えていた。
  グランに見送られながら家を出て、カフェはアリガンの後をついて行く。
  アリガンは普通の市民の格好に日除けのフードを被っただけだったが、カフェは旅をするときと同じように男装して顔を隠している。
  どうやらアリガンは人ごみが多い道を選んで歩いているようで、変に裏道を行くよりは安全だと聞かされてはいても、カフェは内心緊張の連続だった。途中何度も兵とすれ違ったが、そのたびにカフェは前を歩くアリガンに隠れた。
  しかしカフェの不安を他所に、結局目的の民家までは特に誰にも見咎められる事無く到着することができた。
  路地裏に入ったときには、すでに外はほとんど真っ暗な時間になっている。すでに街灯には全て灯が入れられていた。
「ここです。この家の屋上で、夜を待ちましょう」
  そう言って、アリガンは民家の外壁を登り始めた。アリガンの真似をして、カフェも後に続く。
  こんな所を登った経験はもちろん無いが、窓枠が足場になっていて、カフェにも意外とすんなりと登ることができる。
  見上げてみるとアリガンが心配そうにこちらを見ていることがわかったが、カフェが一階部分を登りきった辺りからアリガンは安心したようだった。
  これなら王宮へ侵入するのもなんとかなるかもしれない。
  カフェが屋上まであと少しというところまで来ると、先に上りきっていたアリガンが引っ張り上げてくれた。
  陽は完全に落ちた後のようだ。
「ここで、王宮の中の人間が眠る時間まで、待ちます」
  小さな声でアリガンに言われ、カフェは頷いた。
  月と星と街灯で、完全な闇というわけではない。アリガンは夜目が利くらしいが、カフェにはなんとか活動できる程度の夜だった。
  カフェは座って夜を待とうと思ったが、アリガンはなぜか座ろうとしない。
  それどころか、先ほどまでの余裕が感じられない。アリガンはどこか緊張したように、何かを考え込むように、黙って立っている。
  カフェは不安になって、
「どうしたの?何か問題?」
  と、緊張した声で尋ねた。
「いえ、その……」
  言いにくそうに、アリガンが口ごもった。
「ここで、服を着替えなければならないので……」
  言われてから数秒して、カフェは自分の顔が真っ赤になっている気がして焦った。

  夜が、更けていた。昨晩と同じように、アーニャは姫と二人で話をしている。
  姫は落ち着かない様子で、しきりに水を飲んでいた。
「カフェさん達、大丈夫かしら……」
「大丈夫でしょう。とにかく今は、アリガンを信じるしかありません」
  そう言いながらも、アーニャもやはり心配ではあった。
  明日、有力者達が集まることはすでに決定していたし、通達も行き渡っている。カフェ=ティリタイが来てくれなければ、もう逃げることはできないだろう。
  どちらにせよ他に有効な手段は無かったので、賭けとしては悪くない条件ではあった。それでも、賭けているものが大きすぎる。ましてや姫にとっては、自分の人生そのものを賭けているのだ。普通であれば、落ち着いていられるものではないだろう。
「今の段階では、これが最善の選択だと思います。後は信じて、待つしかありません」
「……そうね」
  時間は刻々と過ぎていく。
  その時間が今のアーニャには、なんとも長く感じられた。

  数時間、アリガンとカフェは静かに時を待っていた。
  声は意外と響くので、この数時間、側に居ながらも二人はほとんど無言だった。
  カフェは眠っているのか、膝を抱えて座っている。
  やがてアリガンがカフェの耳元で、
「そろそろ出発します……。まずはここから降りましょう」
  と囁くと、カフェはすぐに顔を上げた。眠っていたわけではないようだ。
  アリガンが先に降り、カフェもすぐにその後を追う。
  カフェの身体能力はアリガンが思っていたよりもずっと高く、カフェが壁を伝って降りてくるのをアリガンは安心して見ていられた。
「今から行きますが、緊張しなくても大丈夫です……。ここからは声を出せなくなるので、とにかく私の側を離れない事だけ、考えてください」
「うん、わかった」
「では、行きます」
  そう言って、カフェが頷いたのを確認してから、アリガンは王宮の塀に向けて走った。後に続くカフェの足音も、それほど大きくはない。
  一気に塀の上に登って、カフェを引っ張り上げる。
  塀の上で少しの間じっと周囲の様子を伺ったが、カフェの足音を聞きつけた者は居なかったようだ。
  そのまま、昨晩と同じように塀の上を進む。今日は足元を通り過ぎて行く兵も居ない。
  そのまま特に障害も無く、庭の木の影まで進むことができた。カフェは緊張しているようだったが、ここまでは上手くやっている。
  大丈夫です、という程度の意味を込めて、アリガンは大きく頷いてみせた。それを見たカフェも小さく頷き返し、少し落ち着いたようだった。
  兵を二人やり過ごした後、アリガンは木の影から飛び出して建物の外壁に取り付いた。カフェもすぐに後に続き、アリガンと同じ順路で急いで登る。
  屋根の上のアリガンはカフェを引っ張り上げ、また大きく頷いた。
  ここまで来れば、あとはほぼ問題無い。屋根の上を這うようにして、アリガンとカフェは姫の部屋を目指した。

  どうやら、怪しいと思っていた自分の勘は正しかったようだ。
  屋根に登る二人分の人影を確認して、ハドルはその後を追う事にした。
  人影の顔は覆面で見えなかったが、先導する一人は後ろの一人を上手く手助けしている。おそらくカフェ=ティリタイと、あの従者の若い男だ。
  二人は屋根の上を這いながら、姫の部屋へ向けて移動している。どうやったのかは知らないが、アーニャと打ち合わせてのことだろう。
  やはり、姫は心変わりなどしていなかったのだ。
  有力者が集まる席にカフェ=ティリタイが親書を持って現れれば、たとえ手配されていても使者としての役割は果たせるだろう。姫の前では手荒な真似もできない。それどころか、手配したゴルへの批判も出てくるだろう。
  今やアーニャ達にとって、カフェ=ティリタイの存在は唯一にして完璧な手札になっているのだ。
  ハドルはどうすべきかをほんの少し考えたが、やはりカフェ=ティリタイをこの場で消すのが一番簡単で確実な方法だと思った。

 もうすぐ姫の部屋の上に出る。
  アリガンはカフェの様子を確認しようと、振り向いた。次の瞬間にはアリガンは弾かれたように立ち上がり、右手でナイフを抜きながらカフェの頭上を飛び越えた。
  鋭い金属音が響く。
  カフェに向けて振り下ろされようとしていた刃が、横に逸れて空を切った。
  刃の主は小さく舌打ちして、後ろに跳んだ。
  アリガンは左手にもナイフを抜き、両手で構えた。
「邪魔だ。お前はどうでもいい」
  声を聞くのは初めてだったが、アリガンには目の前の男の雰囲気を知っている。宰相の秘書官で、名前はハドルだとアーニャから聞いた。
  何度か襲われ、そのたびにいくつかの偶然のおかげで切り抜けてきた。
  明らかに敵だ。
  ハドルは明確にカフェだけを狙っている。アリガンでは生きていても使者としての役目は果たせないため、当然だ。
  アリガンの後ろで、やっと状況を理解したカフェが小さく悲鳴を上げた。
  アリガンには無抵抗でカフェを渡すつもりなど無い。ハドルもそれはわかっているようで、攻撃の目標をアリガンに変えたようだった。
  お互いに無言で対峙し、先に攻撃を仕掛けたのはアリガンだった。
  左手のナイフで横に薙ぐように切りかかり、右腕のナイフは突きを繰り出す。
  ハドルは一撃目を後ろに跳んでかわし、突きを剣で叩き落した。
  ハドルが右腕に加えた衝撃に逆らう事無く、アリガンは右腕を抱え込むようにして地面を転がり、起き上がりながら蹴りを繰り出す。
  足は空を切り、アリガンとハドルはまた対峙した。
  数歩分の距離、ハドルをカフェから遠ざけたアリガンは、今度はハドルの右手首を狙って切りかかった。剣を持つ右手を、両手のナイフで同時に攻撃する。
  アリガンはまた一歩、ハドルが後ろに跳躍して避けるものと思った。
  だが、ハドルは狙われている右腕を伸ばし、アリガンの顔面を殴りつけた。
  予想外の衝撃で、目の前が一瞬真っ白になった。
  終わりだ、という声が聞こえた気がして、次の瞬間にはドサリと、柔らかく重いものが地面を叩く音が聞こえた。
  殴られた衝撃から回復して視力が戻ると、アリガンの目の前にハドルが倒れている。
  その先にはカフェが立っていて、その両手には元は一つであったと思われる煉瓦の欠片が握られていた。
「……大丈夫?」
  何と答えていいものか、とにかくアリガンはカフェに礼を言った。

第八章

  翌朝、国内の主だった有力者達が理由を告げられないまま呼び出され、一室に集められている。テーブルを囲みながら、それぞれが世間話をして姫と宰相を待っていたが、ほとんどの者が自分達が集められた理由に薄々は感づいているようだった。
  全員が揃ってからしばらくすると、まず宰相が現れ、そのすぐ後に姫が現れた。
  姫は全員から一通りの挨拶を受けて、その全てに丁寧に対応していた。やがて全員が着席すると、姫がゆっくりと立ち上がった。
「急な呼び出し、申し訳無いと思っています。今日は今後の国政に関わる重要な事柄を皆に伝えようと思い、このような場を設けました」
  透き通るような声で、姫は力強く言った。
  その姿は凛々しく、思わず息を呑む者もいる。姫はゆっくりと全員の顔を見回し、そして軽く息を吸った。
「前王が亡くなってからの数ヶ月、私が代理として王位につき、国政の実務については皆の協力の下、運営が行われてきました。しかし、前王が急逝したとはいえ、王の空位がこれ以上続くのは、民心を無駄に惑わせ、この国のためにならないと考えます」
  大きく頷く者、目立った反応を示さない者。
  反応はそれぞれ違ったが、この場の全員がここに呼び出された意図をはっきりと掴み、場の空気は緊張したものになった。
  姫は皆の反応を待つように言葉を切ってから次の言葉へと移った。
「そこで、皆に会わせたい者が居ます」
  姫の言葉の後、締め切られていた扉が大きく開かれた。
  そこにあったのは、身なりを整えたカフェの姿。
  有力者達はどよめいたが、中には明らかに喜んでいる顔の者が何名か居る。
「カッパラから、国使として参りました。カフェ=ティリタイと申します。こちらに、カッパラ王より預かった親書がございます」
  跪き、頭上へ掲げるようにして、カフェは廊下から書状を差し出した。
「ご苦労でした。カフェ=ティリタイ、中に入ることを許可します。こちらへ」
  姫の言葉を受け、そのままの姿勢で一礼してからカフェは立ち上がり、姫が指示するままに、姫の傍らへ進んだ。
  カフェが差し出す書状を受け取った姫は、その場で書状に目を通す。
  皆が見守る中しばらくそうしていた姫は、丁寧に書状を畳んで、また、皆の顔を見回した。
「カッパラ王が、王子を私の婿に出したいと申し入れてきました。……私はこの話を、受けようと思っています」
  そう宣言した姫を、ある者は頼もしげに見つめ、ある者は唖然として見ていた。
  この日、トルクォル王宮は前王の死以来の大混乱に陥った。

  カフェがカッパラの使者として書状を届けてからは、カフェもアリガンもそれぞれ忙しかった。
  手配はその日のうちに撤回され、カフェは改めて使者として一通りのもてなしを受けた。
  市民には様々な噂が広まったが、どうやら姫の結婚が決まったらしい事と、その相手は他国の王子になったらしい事は確定したものとして語られていた。
  カフェが王宮でもてなされている間、アリガンは接収されていたラクダや道具を引き取って、バドの家を片付けていた。アーニャが蹴破った扉はいつの間にか新しいものに取り替えられていた。
  婚姻の報せに対しての応接は他のものよりも手厚いらしく、カフェは一日目は王宮から出られなかったらしい。
  アリガンは夕方グランに礼を言いに行ったまま、その日はグランと夜通し何かを語っていた。王宮の見取り図に関しては、屋根の上の煉瓦が老朽化していることだけを教えておいた。
  二日目もカフェは政治家の娘などと会話をして過ごし、なかなか帰らせてもらえなかった。会話の中でゴルが宰相の任を辞退すると言い出したと聞いたが、姫が直々に止めたらしい。色々と面倒な事になるのだろうかと思い、カフェは姫に同情した。
  アリガンは朝になってグランに別れを告げた後、ゆっくりと歩いてバドの家に帰り、椅子に座って目を閉じた。少し痣になっている顔をさすりながら、結局ハドルには一度も勝てなかったことを思い出した。
  カフェがハドルを気絶させてくれなければ、自分はあのまま殺されていただろう。今は居ないカフェにむけて、アリガンは小さく礼を言った。

  二日目の夕方になって、カフェはやっと王宮から解放された。
  アリガンはこの二日間どこに居たのか、全く会えていない。居るとすればバドの家かグランの家だろうと思い、カフェは王宮から近い方のバドの家へと向かった。
  ずっと行儀良くしていたからだろうか、カフェはこの二日間でずいぶん気疲れしていた。
  姫の結婚の噂が広まったからか、カフェがすれ違うトルクォルの市民達はどこか楽しげだ。
  自分がこの件に関係していたことにいまいち実感が持てないが、それでもカフェは満足だった。しばらくすれば他の国へも噂が届き、商人の数も増えるだろう。そのときにはまた、賑やかになったトルクォルでの買い物を楽しもう。そんな事を考えながら、カフェは少しだけ早足で歩いた。
  と、ふと見ればカフェの行く先に、一人の男が立っている。
  あと数分歩けばバドの家に着くという場所で、人通りは無い。
  歩きながら前方の男を観察すると、その男は、あの、ハドルだった。その事に気付いた瞬間、カフェは後ろを向いて逃げ出そうとした。
  だが、
「待て、何もしない」
  背後から、案外穏やかな声が響いた。
  カフェは逃げ腰のまま、それでももう一度振り返る。
「もう、お前達を襲う理由が無くなった。何もしない」
  ハドルはそう言って、敵意が無いことの証明のつもりか、カフェに近付こうとしない。
「ゴル様は、カッパラから来る王子の……、つまり次の王の、教育係としてトルクォルに残る事になった」
  少し距離があるカフェにむけて、ハドルは呼びかけるようにそう言った。
「今回の件にお前達を巻き込んで、済まなかったと伝えろと、そう言われて来た。……それだけだ」
  それだけを言うと、ハドルは近くの路地に入って姿を消した。
  そしてそのまま、現れることは無かった。
  念のために、カフェはしばらく警戒しながら歩いてみたが、結局何の問題も無く、バドの家まで辿り着くことができた。

  椅子に座ったまま、アリガンはいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
  部屋の中はすでに真っ暗で、締め切った窓の隙間から漏れる光を見ると、どうやら今は夕方らしかった。ひょっとしたら明け方かもしれないと思ったが、気温の感覚から、まだ夕方だと判断する。
  どれくらい寝ていたのかわからなかったが、アリガンはとりあえず伸びをした。
  こんなにゆっくり寝たのは久しぶりだと思いながら、アリガンは手探りでランプを探し始めた。そこへ、新調された扉が、ゆっくりと開いた。
「えと……。アリガン?」
  声で、カフェだとわかった。
  部屋の中が真っ暗なので、アリガンが居るのかどうか、外からはわからないのだろう。カフェの声は少し、不安そうだ。
「はい、お嬢様。お帰りなさい」
「あ、居るんだ?なんで真っ暗なの?」
  とりあえず扉を閉めながら、カフェが尋ねる。
「それが、ついさっきまで居眠りをしていて……。申し訳ありません」
「……もう。それ、謝ることじゃないじゃない」
  拗ねたような、怒ったような口調で、カフェが言った。おそらくカフェは、唇を少しだけ突き出して、眉根を寄せているに違いない。
  見えないはずの顔がはっきりと想像できて、アリガンはなんだか可笑しくなった。
「……?ひょっとして、何か笑ってる?」
「いえ……、なんでもありません」
「嘘!声でわかるよ!」
「笑ってません」
  笑いながらそう言って、アリガンはランプを探した。
「もう……」
  呆れたような声でそう言いながら、アリガンはなぜかカフェも笑っている気がした。
  手探りで見つけたランプに器用に火を入れ、テーブルの上に置いた。
  小さなランプ一つでは、部屋の中は薄暗い。
  まだ入り口近くに立っているカフェの顔が、やっぱり笑っていた。
「……ただいま」

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