カナメスタジオ
自作小説書いたり同人誌出したりするところ。

『砂漠の海と銀の月(2008.4.10)』

プロローグ

  市場は活気に溢れていた。
  あちこちで、様々な人種がいくつかの言語で取引する声が響いている。東方からやってきたと見える男の店では、何に使うのか想像もできない器具が高値で売られていて、その店の横ではこの国の男であろう、黒髪短髪の若者が小麦や酒、蝋燭などを売っていた。西域から持ち込まれた刀剣を売る店では、異国風の衣装を着込んだ若者が派手な演舞を見せている。
  砂漠のオアシス都市国家、トルクォル。
  人口数万人のこの国は東西の貿易の中継点にあたり、商人達の宿場として栄えていた。特産品は無いが、文化と技術が各地から流れ込むため国力はある。
  耕すことのできる土地は限られていて、この貴重な土地を持つ国民は農業を営んでいる。
  また様々な言語を覚えて扱える者は、定住商人として大きな利益を上げることができた。
  水と食料が限られたこの国の人口は飽和気味で、土地も技能も持たない若者は旅の商人となって国を出て行くことが普通だった。
「いいか、アリガン。いつも通りだ。俺が食い物を盗って逃げるから、お前はそのスキに金だ」
「大丈夫。グランの方こそ気をつけろ。足、まだ治ってないだろ?」
  人ごみの中を二人の少年が歩いている。
  グランと呼ばれた少年が前を行き、もう一人は半歩遅れでついて行く。グランは十四歳ほど、そしてアリガンと呼ばれた少年はまだ十一歳ほどにしか見えない。
「心配すんな。痛いけど、走れないほどじゃない」
  そう答えながらグランは、市場の店を一つ一つ観察している。
  少年達はごく普通のこの国の格好をしていたが、顔立ちを見れば少し異国の血が混じっていることがわかる。
  彼らは歩きながら、今日の糧となる犠牲者を探していた。
「よし、あの店にしよう」
  歩く速さを少し落としながら、グランはアリガンに向けて合図を送った。
  アリガンは無言で頷き、さらに歩みを緩める。グランはアリガンから離れ、目標とする店へと早足で近づいていった。
  ごく普通の、この国の定住者むけの商品を扱う露店。野菜と果物と穀物と、そして保存用のパンが並べられている。
  グランは何事もなく店の前を通り過ぎると見せかけて、いきなりパンを数個掴むと今来た道を引き返し、アリガンの横を駆け抜けていった。
「こ、こらっ!待てぇっ!」
  店を出すことに慣れていないのか、店主は何が起きたのかを理解するのに一瞬かかった後、あわててグランを追いかけ始めた。
  周囲の人々が何事かと店主を見送っている隙に、アリガンは店に置き去りにされている小銭を素早く掴み取ると、グラン達が走り去ったのとは逆の方へと駆け出した。
  いつもの手口。これまでも相手を変えては何度も繰り返してきた手口。
  失敗はまだ一度も無かった。だから、今回だって何の問題も無い。アリガンは全力で走りながらも、満足げな笑みすら浮かべていた。だが。
「おい、待て!」
  突然、二人の男がアリガンの行く手を塞いだ。
  アリガンは咄嗟に右に曲がって路地へと逃げ込んだが、一瞬にして先ほどまでの余裕の笑みは消え去っていた。
  二人の男もアリガンの後を追い、路地へと入ってくる。
  後ろから聞こえる男達の足音を聞きながら、アリガンは必死になって走った。
  男達はおそらく、トルクォルの正規兵だ。アリガンのような子供にとっては一番厄介な存在。路地に逃げ込む瞬間に見えた制服は、アリガンにとっては恐怖の象徴だった。彼らに捕まって、帰ってこなかった仲間も何人か思い出せる。
  逃げ切らなくてはいけない。
  だが、路地を何度か曲がった後、通路は突然途切れ、アリガンの前は三方の壁に塞がれてしまった。壁は子供が乗り越えられるような高さではなく、隠れられる場所も見当たらない。どうやら密集して建ち並ぶ家々の間に確保された、採光と通風のための空間らしい。
  もはや、逃げられる場所は無い。
  脈が速く、心臓が痛い。限界を超えて走っただけが原因ではなかった。
  正規兵に捕まることへの恐怖と、なんとかしなければという興奮。
  男達の足音が、すぐ近くに迫っているのが聞こえた。
「いたぞ、こっちだ!」
  先行してきた男の一人と目が合った。男はすぐにもう一人を呼び、アリガンに向かって身構える。男達が合流するまでの数秒、アリガンと男は睨み合った。
  男は帯剣しているが、子供一人を相手に抜くつもりも無いらしい。それを見ながらアリガンは、やるしかない、と決意を固めていた。
  おとなしく捕まっても、どうなるかわからない。だが少なくとも、帰れない事だけは予想できるのだ。
  男達が剣を使わないつもりなら思い切って暴れてみせ、隙ができた瞬間に逃げる。これしかない、と思った。
  合流した男達は、アリガンとの間合いを少しずつ詰めてくる。
  子供が相手だと思ってか、あまり警戒している様子は無い。
  アリガンも男達が近づいてくるのに合わせてじりじりと後退したが、すぐに壁際まで追い詰められてしまう。
  右の男は背が低く気弱そうだが、左の男の顔からは感情が読めない。
「お前、流民の子だな?おとなしくしてろよ」
  そう言いながら、右側から近付いてきていた男がゆっくりと手を伸ばす。もう少しでアリガンに触れる、というそのとき、
「ゃあっ!」
  短く叫びながら、アリガンは近付いてきた男とは逆の、左側に居た男めがけて突進した。
  左の男は虚を衝かれ、咄嗟の判断が間に合わず、仰向けに倒れた。
  その男の上を跨ぐようにして逃げようとするアリガン。しかし転倒した男が伸ばした腕に右足をつかまれ、今度はアリガンが倒れる。
  男はそのままアリガンの足を強く引っ張り、
「っこのガキ!」
  不意を衝かれたとは言え、子供に転倒させられた事に対し怒った男は、アリガンをずるずると引きずり寄せて押さえ込もうとする。しかしそのときアリガンが無茶苦茶に振り回していた左足が、運悪く男の右目に直撃した。
「があぁっ!」
  子供の蹴りとは言え、あまりの衝撃に右目を押さえる男。
  アリガンはこれで逃げられると思ったが、しかしアリガンの足を掴む男の手にはむしろ力が加わっていた。
「おい、大丈夫か!?」
  ほとんど一瞬に起きたこの出来事をただ見ていた気弱そうな男は慌てて同僚の側に駆け寄るが、無表情だった男は同僚を無視して立ち上がった。
  アリガンは必死に暴れているが男の力は弱まる気配すら無く、その顔は痛みからか怒りからか、激しく歪んでいる。
  男は片腕だけでアリガンを逆さ吊りにしたかと思うと、そのまま壁めがけてアリガンを叩きつけた。
  背中を強く打ち、アリガンの肺から空気が漏れる。
  そのままドサリと地面に落ちたアリガンは顔面に男の蹴りを食らい、そのまま続けて腹にも数回衝撃を感じた。
「おい、やめろ!やりすぎだ!」
  気弱そうな方の男が怒り狂っている男を羽交い絞めにして、ようやく蹴りは止んだ。
  痛みよりも何よりも、呼吸が上手くできない。アリガンはむせ返りながら血と砂利と唾液を吐き出した。
「これ以上は死んじまうだろ!殺す気か!」
「放せっ!こんなガキ、殺したって構わねぇだろが!」
  まだ怒りが治まりそうにない男を、もう一人が必死になって止めている。
  男達の会話はアリガンの耳に入っていたが、その意味を理解する余裕など今のアリガンには無い。ただ呼吸を取り戻すことだけに必死になったが、息を吸うのがどうしてもうまくいかない。
「殺しちまったら死体を片付けなきゃならんだろ!とにかく落ち着け!」
「くっ……」
  同僚の言葉に納得したのか、男は暴れるのをやめた。
  くそっ、と言いながら落ち着いた様子を取り繕い、ゆっくりと同僚を引き離して一度、深く呼吸をした。
  気弱そうだった方の男は仲間が落ち着いたのを確認すると、アリガンの顔を覗き込むようにしてしゃがんだ。特別心配している様子も無く、ただアリガンが生きていることだけを確認すると、
「大丈夫だな。よし、帰るぞ」
  と言って立ち上がり、まだ先ほどの無表情に戻れていない同僚を促した。
「放っておいていいのか?」
「しょうがないだろ?あんな弱ったの連れて帰っても面倒なだけだ」
  心底めんどくさそうにそう言うと、気弱そうだった男は同僚を置いて先に立って歩いていった。無表情だった男も少し慌ててすぐに歩き出す。
  男は角を曲がる時、一瞬振り返ってアリガンを見たが、アリガンはさっきと同じ姿勢のままで横たわっていた。

(……よかった。生きてるみたいだ)
  痛みに耐えてじっとしているうちに、アリガンは眠ってしまっていた。殺されるのかもしれないという恐怖が遠ざかった途端に、急に意識を失ったらしかった。
  鼻血のせいで息苦しい。ずっと口で呼吸していたのだろう、喉の渇きは痛みを伴うほどだった。
  ゆっくりと、慎重に身体を動かしてみる。骨は折れていないらしく、痛みさえ我慢すればなんとか動かせそうだった。
(とにかく、帰らなきゃ)
  陽はすでに暮れかけている。あと一時間もすれば完全な夜になってしまうはずだった。
  壁に体重を預けながら、少しずつ立ち上がっていく。
  歩き出そうとしたところで、右足に鋭い痛みを感じた。やれやれ、と、アリガンは半ば他人事のようにその痛みを受け入れ、なるべく右足に体重をかけないよう気をつけて大通りを目指して歩いていった。
  ふと泣き出したい気持ちになったが、泣いても誰も助けてくれない。無駄な事はしたくなかったから、アリガンは泣くのを諦めた。
  昼間であれば市場の喧騒を目指して歩けただろう。しかし市場はすでに閉じているようで、方向感覚の助けになる目印は無い。アリガンは何度か迷いながら、男達に追われて逃げた道を引き返していった。
  運良く大通りへと出られたときにはもう人通りはまばらで、店もきれいに全て片付けられた後だった。
(もう、限界)
  右足の痛みと、喉の渇き。
  ほんの少しだけ、休もう。休んだら、グラン達がいる家に帰ろう。
  そう思いながら、アリガンは道端に座り込んだ。
  実際、限界だったのかもしれない。
  喉の渇きも、一歩踏み出すごとに増す痛みも。
  身体全体が少し熱っぽく感じるのは、極度の興奮から冷め切っていないからだろう。指先は小さく震え、上手く力を篭められなかった。
(誰か……グラン……)
  陽はすでに落ちている。薄明かりの中で、何人かの市民がアリガンを見ながらも足早にその前を通り過ぎていった。
(少しだけ……寝ようか……)
  一度身体を休めてしまうと、もう、立てる気がしなかった。アリガンはゆっくりと横になり、身を丸めて動かなくなった。

  大通りを、一人の男が歩いていた。
  男は小型だが明るいランプを持ち、ゆっくりと歩いている。
  男の身なりは地味ではあったが、服や靴、鞘に収められた剣も、全てに手入れが行き届いているようだった。
  ランプが照らし出す空間は狭く、その男が道端に倒れている少年を見つけたのは単なる偶然だった。男はなぜか足を止め、数秒、少年を観察していた。
  やがて男は静かな足取りで少年に近付いてすぐ側にしゃがみ込むと、片手で器用に抱き上げた。
  眠ったままの少年を左手で担ぐようにして、右手ではランプを掲げ、何事も無かったかのように男はまた歩き出した。
  ランプが照らし出した男の顔には、ほんの少しだけ悲しそうな表情が浮かんでいた。

  首筋を撫でる、冷たい感触で目が覚めた。
  見覚えの無い天井と、見覚えの無い少女。少し離れた机の上に置かれたランプに薄暗く照らし出されている。
  少女はアリガンが目覚めたことに気付き手を止めた。首筋に感じていた冷たさは、少女が持つ、濡れた布のものらしかった。
  この少女の仕事だろうか、アリガンの顔には血も砂も残ってはいない。
「大丈夫?」
  心配しているというよりは、挨拶のように落ち着いた声だった。
  少女はアリガンよりも少し年上だろう。顔立ちは整っていたが、皮膚の色も髪の色も少し薄い。少女はじっと、アリガンの顔を覗き込んでくる。
  何か答えなくては、とアリガンは思ったが、状況が飲み込めないため焦ってしまい、とりあえず小さく頷いて見せた。それを見て少女も小さく微笑みながら頷き返すと、
「今、父様を呼んでくるから」
  と言い残して静かに部屋を出て行った。
  部屋の中にはアリガンが寝ているベッドと、ランプを乗せた机、そして少女が座っていた椅子があるだけだった。
  薄暗い視界の中でぼんやりと、どうすべきかと考えてみたが、温かく肌触りの良い布団の中から出る勇気は今のアリガンには無かった。
  ベッドの中から天井を見上げていると、
「入るぞ」
  ドアの外からやや低めの男の声が響いた。声に続いて、中年の男が部屋に入ってくる。先ほどの少女もその後ろに続いていた。
  男は無愛想な顔をアリガンに向けると、何も言わずに椅子に座った。
「痛む、所は?」
  ゆっくりとした口調で、男が訊ねた。その声は重厚だが、顔に似合わず優しいものだ。アリガンを見る男の目も、微笑んでこそいないが、どこかに優しさを感じさせる。
「あの、足が。痛い、です」
  答えながらアリガンは、横になったままでいるのが失礼な気がした。アリガンは上半身だけでも起こそうとしたが、男は無言で手をかざした。寝ていろ、という意味らしく、男はずり落ちかけた毛布をアリガンの肩に掛けなおした。
「右足だな。一応、塗り薬をつけておいた。すぐに治るだろう」
  言われてみると、右足を固定されている感覚がある。包帯が巻かれているようだった。
  ありがとうございます、とアリガンが言うと、男は深く頷いた。が、それ以上、何を言うわけでもない。
「父様。自己紹介をした方がいいと思うわ」
   アリガンの足元から、少女がそう言った。
  この部屋にある椅子は男が座っている一つだけなので、少女はいつの間にかベッドに腰掛けていたようだった。
  男は娘に向けて頷き、
「私はバド=ティリタイ。この子はカフェ。旅の商人だ」
  とだけ説明した。
  どうやらあまり喋らない人物らしい。カフェと呼ばれた少女も、よろしく、と短く応えただけだった。
「アリガン、です」
  それ以上語るべき何物も無いアリガンだったが、バドと名乗ったこの男もそれ以上の説明を求めてはいないようだった。
  バドはゆっくりと一度、頷いただけだった。
「父様。今日はこの子、疲れていると思うわ」
  カフェが言うと、バドはまた深く頷いた。
  立ち上がってドアに手をかけたバドは、
「私達はしばらく、この国に滞在している。……アリガン、君もしばらくこの部屋で休むといい」
  そう言って部屋から出て行った。カフェもベッドから飛び降りると、ランプの灯を消しながら、
「おやすみ、アリガン。また明日」
  と言って出て行った。
  自分の身に起きていることが、幸運なのかどうか。それすらはっきりしないままだったが、他にすることも無い。
  目を閉じて考え事をしているうちに、アリガンはいつの間にか眠っていた。

  次の日、アリガンは朝早くにカフェに起こされた。
  おはよう、朝ごはんだよ、とだけ言って、カフェは部屋を出て行ってしまった。
  アリガンは一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、昨晩のことを思い出して、夢ではなかった事に静かに驚いた。
  カフェを追いかけるように部屋を出ると、ここがこの国にはよくある、三階建ての一般家屋だとわかる。採光用の窓は全て大きめで、一階の、食卓がある部屋も明るかった。
  食卓にはバドとカフェが座っているほかに、もう一つ椅子が置かれている。バドもカフェもアリガンがそこに座るのを待っているような気がしたので、アリガンは戸惑いながらも、その椅子に座った。
  食卓には乾し肉やパン、野菜のスープ、果物などが並べられていて、豪華とは言わないまでもアリガンにとっては充分に喜ぶべきものだった。
  まず最初にバドが食べ始め、それを待ってからカフェが食べ始める。
  アリガンは自分も食べていいものかと迷ったが、食べないの?とでも言いたげなカフェの視線を感じたため、パンをちぎって食べ始めた。
  スープに口をつけたとき、カフェが少しだけ微笑みながら、
「おいしい?」
  と訊ねたので、
「はい、おいしいです」
  と律儀に応えた。
  カフェは満足そうに微笑んで、自分の皿に乗っていた乾し肉を一切れアリガンの皿に移した。バドは終始ゆっくりとした動作で食事を続けていた。
  カフェとアリガンはその後も少しぎこちない会話をしたが、バドは結局食事中一言も喋らなかった。
  食事の後、アリガンはバドに何か仕事を手伝わせて欲しいと言ったが、バドは深く頷いただけで二階へ上がって行ってしまった。
「父様は怒っているわけじゃないの。ああいう人なの」
  カフェはそう言ってくれたが、アリガンは本当にどうしていいかわからない。
  とりあえず皿洗いをします、とカフェに言うと、そうね、と言って水場に案内してくれた。アリガンが皿洗いを始めると、カフェも並んで皿洗いを始めた。
  アリガンは、
「いいですよ、僕が全部洗いますから」
  と言ったが、カフェはにっこりと笑うだけで手を止めはしなかった。
  いつの間にか二階から降りてきていたバドが、二人に向かって、
「昼には戻る」
  と告げると、荷物を持って出て行ってしまった。
  アリガンは皿洗いの後洗濯をして、その次にはカフェとバドの服の裁縫をした。
  カフェはずっとアリガンの側にいて、たまに手伝い、気まぐれに話しかけ、たまにあくびをしたりした。
  裁縫が終わると、アリガンは何をしていいのかわからなくなってしまい、
「あの、僕はこの後どうしたらいいんでしょうか?」
  とカフェに尋ねてみたが、カフェは、
「父様が帰ってきたら、お昼ごはんだから。準備しましょう」
  とだけ言って昼食の準備にかかった。
  カフェが並べた皿が三人分なのを見て、アリガンは自分も食事の準備を手伝った方がいいのかな、と思った。

  正午を少し過ぎてから、バドが帰ってきた。
  バドもカフェも当然のように食事の席につくと、当然のようにアリガンが座るのを待っている。アリガンがおずおずと席に着くと、朝食と同じ順番で食事が始まった。
「あの、バドさん?」
  アリガンが話しかけると、バドの目がアリガンに向けられる。予想通りではあるが、言葉による返事は無かった。
「昨日、助けていただいて、本当にありがとうございます。それに、食事まで。でも、僕にはバドさんにここまで良くしていただく理由は無いはずです」
「……それで?」
「えっと……。その、なぜ、助けてくださったのですか?」
  バドの表情は変らない。バドは呼吸二回ほどの間黙っていたが、
「私は、子供が道に倒れていたら助けるべきだと考える……。それだけだ」
  と言うと、視線を落として食事に戻ってしまった。それっきり、この話は終わりだとでも言うように、黙々と。
  アリガンがなんとなくカフェの方を見ると、カフェは苦笑にも見える表情をしていた。
  父様は、こういう人だから。そう言っているように見えた。

  そのまま数日、アリガンはバドとカフェの世話になった。
  二日目の朝食時に何かできることはないかと訊くと、バドは数本のナイフをアリガンに渡して、研いでくれ、とだけ言ってどこかへ出かけていった。
  その他にも、新鮮な野菜と果物を買ってきてくれ、と言っていくらかの金を渡された日もあったし、ランプの手入れを頼まれた日もあった。
  アリガンが、グランという友人に自分の無事を連絡したいと言った日もあったが、バドは普段と変らず、そうか、と言って深く頷いただけだった。
  カフェは気まぐれにアリガンを手伝ったり、たまにいたずらをしてアリガンを少しだけ困らせたりしていた。

  六日目の夜、普段よりも早い時間にバドが帰ってきたため、夕食も早めに済ませることになった。
  最初の夜よりアリガンとカフェが話すことが増えていたが、バドは相変わらず黙々と食事を続けている。
  そして食事が終わりかけた頃、珍しくバドが口を開いた。
「明日、出発する」
  アリガンには一瞬、何のことかわからなかった。それよりも、バドが自ら口を開いたことに対して、驚いた。
  アリガンの驚きを知ってか知らずか、バドはアリガンを見据えると、
「来るか?」
  と、短く訊いた。
  意外だった。
  意味を理解するのに、少し時間がかかった。
  バドは黙って待っていた。
  カフェはパンをちぎって、スープにつけてから食べた。
「はい!ありがとう……ございます!」
  アリガンは立ち上がって、深く深く、バドに頭を下げた。

第二章

  王宮の一室で、非公式の謁見が行われていた。
  使者は一人の女性で、まだ若い。その目つきは鋭く、口元は引き締まっており、意志の強さを感じさせる。
「では、ご承諾頂けるのですね?」
「ああ。我々にとっても悪い話ではないからな」
  応えた男は中年に差し掛かったほどの年齢に見える。思慮深そうな顔に、薄く微笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます。しかし私はこの通りあくまでも私的な使者で……何の権限もございません」
「そうだな。よし、我々の方から正式に使者を立てよう。それで良いな?」
「はい。何から何まで……」
「なに……。これも政治だ」
  男はほんの少しだけ寂しそうな表情をしてみせたが、使者はそれに気付いてはいないようだった。
「では、早速ですが私は国へ帰り、迎え入れのための準備を始めたいと思います。……本当に、ありがとうございました」
  最後に深く頭を下げた使者は、急ぎ足で男の前を退出した。
  その場で使者を見送った男は、ゆっくりと目を閉じると、しばらくの間、考え事をしているようだった。
  やがて、ゆっくりと目を開けた男は部屋の外に待機している兵を呼ぶと、
「バド=ティリタイという男が街に滞在しているはずだ。探し出して、私がすぐに来てほしいと言っていると伝えろ」
  と命じると、机に向かって何かを書き始めた。

「バドさん、王宮から呼び出しだそうです」
  オアシス都市国家カッパラ。
  その中心街から少し外れた道に面する静かな家に、バド達は滞在していた。兵からの伝言を取り次いだのは、十六歳になったアリガンだった。
「至急来てほしい、と仰っていますが、どうなさいますか?」
  アリガンがバドに拾われてから、五年以上が過ぎている。
  アリガンは今、バドの秘書のような、弟子のような立場で働いていた。
  五年を一緒に過ごしても未だ謎の多いバドだったが、バドが王宮に出向くことは珍しくない。しかし、至急の呼び出しは珍しかった。
  バドは表情一つ変えずに頷くと、
「わかった。兵がいるなら、私一人で行こう」
  そう言って、手早く準備を整えて出て行った。
  ドアの前でバドを見送ったアリガンが家の中に戻ると、
「父様は、お仕事?」
  バドと入れ違いに二階から降りてきたのは、十七歳になったカフェだった。眠いのだろうか、口元に手を当てて小さくあくびをしている。
「わかりません。王宮から、至急来てほしいと。珍しいことです」
  律儀に応えたアリガンだが、カフェはあまり興味が無いようだった。
「そう……。アリガン、何かやりかけの仕事はある?」
「いえ、今は特にありません」
  カフェは椅子に座って目をこする。やはり眠いのかもしれない。
「ねぇアリガン。私、お茶が飲みたい」
「はい、お嬢様」
  嫌な顔一つせず、カフェの好みに合わせてお茶を準備するアリガン。
  特別変ったこともない、これがアリガンにとっての日常だった。
  カフェのわがままも、含めて。

  数名の案内の兵と共に、バドは王宮の門をくぐった。
  あまり高くない塀の中には、公園や病院として一般市民に開放されている空間がある。
  その奥に進むと、常に警備の兵が置かれている中門があり、そこから先は許可を得た者しか入れないようになっている。
  警備の兵がバド達に気付くと、特別な手続きも無く門が開いた。
  バドは無言で警備の兵に軽く頭を下げると、王宮内へと入って行く。そのまま案内の者に導かれたのは、このカッパラの国の王の、私室だった。
「やぁ、バドさん。待っていた。」
  そう言いながらバドを出迎えたのはこの部屋の主、カッパラ王だ。
  王は親しげにバドに椅子を勧め、自らもテーブルを挟んだ対面に座った。バドもこの部屋の勝手は知っているようで、勧められたままに腰掛けた。
「いきなり呼び出して済まない。実は、バドさんに頼みがあるのだ」
  そう言いながら王は、一通の手紙をテーブルの上に置いた。
  一見して上質な紙であることがわかるその手紙には、国家間でやり取りされる正式な書類であることを示す印が押され手いる。
  王はその手紙をバドの前へと差し出しながら、
「これを、トルクォルへと届けてほしいのだ。……正式な使者として、だ」
  と、バドに告げた。
  バドは手紙には手を触れないまま王の表情をじっと見つめていたが、
「理由を、お聞かせ下さい」
  とだけ言った。
  バドは一介の商人であって、カッパラの役人ではない。
  各国の有力者の私的な手紙を預かることはあっても、正式な使者として親書を預かった経験は、これまで無かった。
  バドの問いに、王はうむ、と頷き、話し始めた。
「今、トルクォルには王が不在なのを知っているな?」
「半年前に前王が亡くなった、と聞いておりますが」
「そうだ。だが前トルクォル王には男子は無い。姫が一人、居るだけで……この姫の結婚相手が、まだ決まっておらんのだ」
「なるほど……。つまり?」
  カッパラ王は一拍、間を置いた。
「つまり……わが国から、その姫の婿を出す。今朝トルクォルから使者が来てな。そう請われたのだ」
  バドはほんの少し、驚きの表情を見せた。そしてすぐに疑問の表情へと変わる。
「トルクォルからそのような使者が?それは妙ですが、何か理由が……?」
  バドが疑問に感じるのは当然のことだった。
  トルクォルの王の子が姫一人であれば、その婿が時期の王となる。それはこの地方のオアシス国家の伝統に則っており、そういった例は少なくない。
  しかし他国の王族に婿を請うことは稀で、ほとんどの場合は国内の有力者や親族の中から適切な者を選び出す。
  カッパラ王はバドの問いを受けて、少し難しい顔をしながら答えた。
「それがな……。トルクォルの宰相が、王位を狙っているらしいのだ。この男は通商民嫌いでな。内政を安定させることが第一だと考えているらしい」
「それは……。初耳ですが」
「気にしないでくれ。私も今朝、使者に聞かされて初めて知ったのだ。前王の時代には、少なくとも内政面では有能な男だったらしいがな」
  バドにとっては、各国の政治状況や治安の状態などの情報は時に命に関わる。
  特にこのような、商売に直接関係する情報は、一介の都市国家の王などよりもバドの方が詳しく知っているべきだった。
「失礼ですが……。その使者は信用できる者でしょうか?」
「ああ、何度か面識がある者だ。トルクォルの姫の侍女長でな。バドさんも、知っているんじゃないか?」
「なるほど、あの……。では、間違いは無いようですな」
「残念ながら、な。わが国としては、トルクォルに商人達が嫌うような政策をとられては困る。さらに言えば、私は男子に恵まれた……。そして、カッパラは小国だ。我々に婿を求めたのも、悪くない判断だろう」
  カッパラ王はテーブルの上で指を組みながら、溜め息混じりにそう言った。
  バドは黙って考え事をしているようだったが、カッパラ王は気にすることなく話を続けた。
「本来なら、我が国から使者を出すべきなのだが……。商人の同意を強調したいのだ。バドさんはトルクォルでも顔が広い。商人の中でも中立だ。……引き受けてくれないか?」
  バドはそのまましばらく黙っていたが、カッパラ王は少し焦れた様子を見せながら返事を待っていた。そして、
「わかりました。お受けいたしましょう」
  バドがそう言うと、カッパラ王は安堵からか小さな溜め息をついた。
「そうか、引き受けてくれるか。助かるよ、バドさん」
  本当に安心した、と見える表情で、カッパラ王は言った。
  バドはいつもと変わらない無表情だが、バドの顔を見慣れた者が見れば、面倒なことを引き受けてしまった、と思っている顔に見えたかもしれない。
「それで、報酬についてだが……」
「いえ、報酬は……。いつも通りで、結構です。頂けません」
「しかし今回は……。私の私的な使者ではない。カッパラからの、正式な使者だ。こんな時くらいは報酬を受け取ってくれても良いのではないか?」
  カッパラ王は多少、不満そうに言った。しかしバドはゆっくりと首を横に振ると、
「私はあくまでも商人でいたいと考えておりますので……。労働や情報への対価を頂くのは、本意ではありません」
  そう言いながら、恐縮であるという態度を見せた。
  カッパラ王は残念そうな顔をしてみせたが、半分は諦めた様子で、
「毎度の事ながら、頑固な男だな。では、ラクダを何頭か買ってくれないか。王宮でも常に数頭は確保しているんだが、増えすぎても困るのでな」
「それならば、是非。ありがとうございます」
  この後、王は兵を呼び、バドを家まで送っていくようにと命じたが、バドはそれを丁重に断り、一人で帰っていった。

  その日の夜。
  毎日の夕食を作るのはアリガンの仕事だったが、この日は気まぐれにカフェが手伝いたいと言い出した。
  カフェの気まぐれはよくあることなので、アリガンは、
「では、お願いします」
  と言ったが、結局カフェは味付けに口を出すだけで、切ったり煮たりは結局アリガンの仕事だった。
  それでも、出来上がった夕食はアリガン自身が少し驚くほどの味で、夕食の席でアリガンは思わず、
「おいしい……」
  とつぶやいた。
  カフェはその声が聞こえたのかどうか、
「やっぱりアリガンの作る晩ご飯はおいしいわね、父様」
  とバドに言ったが、パンを食べようとしていたバドの動きは頷いたようにも、パンに口を近づけただけにも見えた。
  アリガンはバドに、今日はお嬢様の味付けですよ、と言おうとしたが、アリガンが口を開く前に、
「ねぇアリガン、私、明日はお魚が食べたい」
  と言って遮ってしまった。
「魚ですね。わかりました。明日、市場で探してみます」
「うん。お願いね」
  カフェはにっこりと笑ったが、アリガンの言葉を遮ったのはわざとだったのだろうか。その笑みは、少し悪戯っぽくも見える。
  バドは結局、食事中は一言も喋らなかった。

  食事の後。アリガンが食器を片付けようとしたとき、バドが口を開いた。
「四日後に、東へのキャラバンが出る。そこに加わり、トルクォルに向かうことにした」
  トルクォル、と聞いて、アリガンは少しの懐かしさを感じた。だがそれ以上に、バドが国名を指定して行き先を告げる事の珍しさが気にかかる。
  普段であれば、西か東か、その程度の事しかバドは言わない。カフェも同じ事が気になったらしく、
「トルクォルに?今の時期、あの国で特別買い付けるような物、あるの?」
  と訊ねた。バドはゆっくりと首を振って否定すると、
「今日、カッパラ王から、トルクォルへの使者を、頼まれた。だから今回は、カッパラの正式な使者として、トルクォルに行く」
  と、事の経緯を説明し始めた。
  カッパラとトルクォルのそれぞれの立場や、トルクォルの宰相と姫について。
  そして、なぜバドが使者に選ばれたのか。
  アリガンもカフェもおとなしくバドの話を聞いていたが、バドがこれほど多くの事を語るのは珍しい事だった。
「……という事で、今回はなるべく早く、トルクォルを目指す。途中の国やオアシスには、なるべく滞在しない。補給が済めば、すぐに東行きのキャラバンを探して、そこに加わる。三十日以内には、トルクォルに着きたいと考えているが……。何か、質問はあるか?」
  そう言ってバドはカフェとアリガンの顔を交互に見た。
  アリガンとカフェもお互いに顔を見合わせたが、バドがすでに仕事を引き受けている以上、特に言うことは無い。
「……では、四日後に出発だ」
  アリガンとカフェはとりあえず、頷いてみせた。

  翌日からの三日間は、それぞれ三人とも忙しいものとなった。
  アリガンは普段の仕事である家事に加え、旅に必要な物資の買い付けと、古くなった服や靴などの新調。
  旅に持っていけないものや必要の無いものは現金に換えた。
  バドはキャラバンを運営する商人と契約を結び、王宮から買い受けたラクダをその商人に預けた。
  二日目にはカフェを連れて王宮に赴き、王宮内でカフェと別れると、謁見の間で正式な使者としてカッパラ王より手紙を託された。
  その場にはカッパラの重臣も数名同席していたが、今回の件は概ね好意的に受け入れられているらしかった。
  バドが王と重臣に囲まれている間、カフェは別室に案内されてカッパラ王の娘達と世間話をして過ごした。
  退屈に慣れた娘達は大げさに喜んで様々な事を話すが、娘達との会話からは、稀に商売に関係するような情報が読み取れる。
  やがてバドが王の前を退出すると、娘達の侍女がそのことをカフェに告げた。カフェはもう少し話そうと引き止める娘達に丁寧に詫びてから、次にカッパラに来たときはもっと面白い話をする、と約束して帰った。
  全ての準備を終えた出発の前夜、三人は新鮮な野菜類が中心の夕食を終え、荷造りを済ませて早めに眠った。

  そして、トルクォルへと旅立つ当日。
  三人は早くに起き出し、早めの朝食を食べた。
  食べ終えるとバドがラクダを受け取りに行き、その間にアリガンは食事の後片付けと戸締りをする。
  そしてカフェは普段の服装をやめ、遠目には男に見えるように衣装を着替えた。頭からすっぽりと布をかぶり、目だけを出して鼻から下も布で覆った。
  やがてバドがラクダを連れて帰ってくると、アリガンとバドが手分けしてラクダに荷物を載せていく。
  水と、食料。通貨、宝飾品。テントや調理器具など。
  カッパラ王から預かった手紙は、バドが肌身離さず持っておくことにした。
  荷物を全て載せ終えると、三人はそれぞれ腰に剣を下げた。バドとアリガンはさらに数本の、使用目的の異なるナイフも身につけた。
  最後に、バドが何か見落としていることが無いかを確認してから、三人はキャラバン隊員の集まる砂漠へと向かった。
  カッパラの中心地から遠ざかるにつれ、人通りは少なくなっていく。
  アリガン達が集合場所に到着したときには、すでに他の商人たちが数十人は集まっていた。ラクダの数は人間の三倍以上にはなるだろう。
  顔見知りの商人も多く、バドは律儀に挨拶をしてまわった。
  しばらくそのまま待っているうちに、アリガン達に遅れてまた数十人の商人が合流した。先に到着していた者と合わせて、百数十人。
  これでもキャラバンの規模としては小さなものだった。
  やがて各商人に伝えられていた時刻になると、このキャラバンの主催者であり隊長である商人が出発を告げ、一行はそれに従って動き始めた。
  バドとカフェはラクダに乗り、アリガンはカフェのラクダを引いて歩く。
  慣れない群れの中で、バド達のラクダは落ち着かない様子だったが、バドは実に巧みに自らが乗るラクダを落ち着かせ、おとなしく行列に加わらせていた。カフェはまだこの点では未熟なため、アリガンがラクダを導く必要があった。
  途中、カフェがラクダから降りてアリガンと一緒に歩きたいと言い出したが、一度ラクダから降りてしまうと次に乗るために立ち止まる必要がある。駄目です、と、アリガンはわざとむげに却下した。
  カフェはもちろんそのことを知っていたので、退屈だから言ってみただけ、と言って意外にもすぐに引き下がった。
  カフェが言う通り、砂漠の旅は退屈で、そして過酷で危険なものだった。
  アリガンはラクダの上のカフェを見上げるように振り返ると、カフェにだけ聞こえるような小さな声で、私も街の方が好きです、と言った。カフェにはその声が聞こえたのかどうか、アリガンの位置からはカフェの表情は逆光になっていてよく見えなかった。

  キャラバンの一行は、ラクダの上で各自パンをかじったり水を飲んだりしながら、六時間近い移動を終えた。
  この日は荒野にテントを張って休むことになっている。次に人が住んでいるオアシスに入れるのは、二日後の予定だった。
  アリガン達もテントを張り、街で食べるものよりは少し質素な夕食を食べた。
  陽が落ちる前に商人たちはあちらこちらで火を起こし、それぞれ談笑と、情報交換を行っている。中にはすでに商談を進めているような商売好きも居るようだった。
  しばらくして陽が落ちると、盗賊などに襲われた場合に備え、キャラバンの隊長となった商人が雇った男達が警備を始めた。その他にも、配下に多数の使用人や見習い商人を連れている者は、その部下達にも警備を手伝わせていた。
  人数が少なく警備を手伝えないバドは、隊長に多めの金額を支払っている。その金で隊長が警備の男を雇うのだから、バド達三人は警備を負担する必要は無いはずだったが、それでもアリガンはバドとカフェが眠るテントの周辺を警備するつもりらしかった。
  結局その日は無事盗賊も出ず、アリガンは何度か浅く眠る余裕があった。

  次の日の早朝。アリガンはテントの近くの焚き火の前で、座ったまま眠っていた。
  太陽はまだ昇っていないが、空は深い群青色。夜明けが近いことがわかる。
  その、薄暗がりの中。アリガンの背後でテントの入り口が開き、カフェが顔を出した。
  昨日と変わらない服装と、目だけを出したフード姿。手には水と、この地方では珍しいコーヒー豆の粉末、そしていくつかの食器を持っていた。
  カフェはそっとテントを抜け出して消えかかった焚き火に近付くと、まだ残っていた種火から火を起こし直して、水を温めだした。水が温まるのを待つ間、カフェは膝を抱えて座り、焚き火の向こうで眠っているアリガンをボーっと眺めていた。パチパチと火が爆ぜる音でアリガンが目を覚ましかけたが、もぞもぞと動いただけでまた眠った。カフェはそれを見て、フードから覗いた目を優しげに細めた。
  やがて水が湯に変わり、カフェはコーヒーを淹れた。金属製のカップに二杯。
  空の色はようやく青に変わり始めた。あと数分もすれば、地平線の先に太陽を見ることができるだろう。
  カフェはゆっくりとアリガンの隣に座り直し、両手に持ったコーヒーを側の地面に置いた。
  まだ起きそうにないアリガンの横顔を見て、カフェはただ、微笑んでいた。
  あの地平線から太陽が昇れば、アリガンは目を覚ますに違いない。それまでの数分間を、カフェは本当に大切そうに、幸せそうに過ごしていた。

第三章

  トルクォルの市民の間で、姫の結婚が決まったらしいという噂が広がり始めていた。
  相手は他国の有力者の息子だという者もいれば、国内から選ばれる予定で既に決まっていると言う者もいる。それぞれの話にはそれなりの根拠が添えられ、しかしまだその全てが不確実なものだった。王が不在のこの国にとって、姫の結婚相手に関する話題は国民全員の関心事であり、それだけに様々な予測とデマと真実が入り混じって噂されている。
  アーニャは部下である侍女たちに頼み街の噂を集めさせていたが、今はまだどの噂も信憑性が薄いものとして受け入れられている様子だった。
  ここ数日、アーニャは何も具体的な手を打てないままに時間を過ごしている。姫の前では余裕があるふりをしているが、アーニャは焦りを自覚していた。
  重臣たちの間では、ゴルと姫が結婚する事を概ね容認しているようだ。積極的な賛成意見は多くはないが、ゴルの内政面での手腕は前王の時代に証明されている。ゴルの通商民嫌いを知っている者も、完全に商人たちを締め出すのでなければ問題ない、という認識らしい。
  アーニャは表向き一介の侍女長に過ぎず、できることは限られている。今はとにかくカッパラからの使者を待って、時間を潰しているほかない。この日もアーニャは姫の側に控え、何かと世話を焼いていた。
「ねぇ、アーニャ……」
「はい、何です?」
  姫はこのところ、ずっと元気が無い。今のアーニャにとって、これが一番辛いことだった。
「私、怖い……。怖いよ……」
  どう答えればいいのか、アーニャにはわからない。
  姫の気持ちはいつでも理解できているつもりでいたが、それでもこんなときにかけるべき適切な言葉は、今のアーニャには見つけられなかった。
  アーニャは何も言えないまま、それでもなんとか自然な笑みを作り、姫の髪を優しく撫でた。
「大丈夫ですよ……。ご安心ください」
  言っている自分で、何が大丈夫なのかわからない。
  それでも、今の姫が頼れるのは自分だけなのだから……。
  そう考えてアーニャは、姫が落ち着くまでずっと、姫の髪を撫で続けていた。

  ゴルの部屋は、王宮内にある。トルクォルの重臣のほとんどは王宮の外に個人の屋敷を構えているが、ゴルは前王の時代から王宮内に一室を宛がわれていた。その一室で今二人の男が何やら話をしていた。一人はゴル、もう一人はゴルより若い。男の背は低く、眉の薄い顔からは表情が読みにくい。盗賊に金を渡してアリガン達のキャラバンを襲わせた、あの男だった。
「では、カッパラ王が、息子を婿に差し出したい、と、そう言ってくるのだな?」
「はい。それが、どうやら商人を使者に立てたようで……。商人達の同意を、この国へ宣伝するためかもしれません」
  男は跪き、椅子の上のゴルに何かを報告している。
「私の独断ですが、途中、盗賊を使ってキャラバンを襲わせました。その商人、今はオアシスで怪我の治療のために足止めされているはずです」
「盗賊で……?ハドル、それはまずいぞ」
「もちろん、目的は教えておりません。キャラバンの隊長に恨みがあると言っておきました」
「そうか。それなら面倒が無さそうだ」
  ゴルは物静かな印象の男だった。目の前の、ハドルと呼ばれた男の報告を聞きながらも、何か考え事をしているらしい。喋り方はゆっくりで、薄く開けられた目はハドルに向けられてはいるが、ピントはどこにも合っていないようだった。
「その商人、名前はわかるか?」
「は、どうやらバド=ティリタイという男らしいのですが……」
「ほう、あの男か……。カッパラ王もなかなか、いい男を選んだものだ」
  ゴルはなぜか嬉しそうに言いながら、薄く笑いを浮かべた。
「あの男には娘が一人、居たはずだ。……あの娘も、オアシスに居るのだな?」
「は、娘、ですか?供の男を二人、連れているだけに見えましたが」
「どちらかは娘の男装だろう。キャラバンでは女は目立ちすぎる」
  抑揚の少ない声でゴルに説明され、ハドルはなるほど、という顔をしたが、すぐに元の無表情に戻って説明を続けた。
「では……、その娘はおそらく、今もこの国に近付いているかと」
「なに?なぜだ?」
「バド=ティリタイの供をしていた男が二人、街を出るキャラバンに加わっているのを確認しましたので……。どちらかが娘だったとすれば、そうなります」
  ハドルの報告を聞きながら、ゴルはまた何かを考えているようだった。ハドルは自分の仕事に落ち度があったことを責められるのかと思い、ゴルの次の言葉を緊張しながら待っていた。
「あの娘は、顔が広い。特に有力者の妻や娘達の間で、バド=ティリタイの娘を知らない者は少ないだろう」
「なるほど、では……」
「おそらく、バド=ティリタイの代理として、この国に向かっているのだろう。あの娘と、カッパラ王の親書があれば、使者としての務めは果たせる」
  ゴルは自分の考えを確認するようにそう言って、また何かを考えている顔になった。そのまま少しの間、ゴルは黙っていたが、ハドルにはそれが、自分が何かを言い出すのを待たれているように感じた。
「では、もう一度私が出向いて足止めを致しましょうか?」
「そう……だな。そうしよう。あまり時間も無い」
  ハドルの提案をすんなりと受け入れ、ゴルは軽く頷いてみせた。
「では、私はこれで……」
「ああ、頼んだぞ。いつも無理を言ってすまないな」
「いえ、そんな……。私はただ……」
  その先、何を言おうとしたのか。自分でもよくわからないまま、ハドルは一礼してゴルの前を辞した。

  キャラバンは、まばらに草の生える荒野でテントを張っていた。
  あと四日もすればトルクォルに到着できる距離にまで近付いている。
  アリガンとカフェはこの日まで二回、キャラバンを変えて最短時間でトルクォルを目指していた。バドが居ない旅は不自由なことの連続だったが、これまでは特に大きな問題も無くやってこれた。
「アリガン、今日も寝ないつもり?」
  夕食の時、カフェはこの旅で何度目かの質問をした。
  周囲は既に暗く、所々に見える焚き火の光もそう大きくはない。アリガンはカフェに向けて、これも何度目かの困った笑顔を見せた。
「はい、見張りは必要ですから……。それに、昼間にちゃんとラクダの上で寝ていますよ」
  実際、アリガンは昼間はラクダの上で浅く眠っている。毎夜の見張りでも、多少まどろむ程度の眠りが無いわけではない。カフェもそれは知っていたが、
「でもアリガン、少しずつ顔色悪くなってるよ?……少しは横にならないと」
  心配そうにそう言うカフェに、アリガンは、
「大丈夫です。お嬢様は安心して、お休みになってください」
  と言って、微笑むばかりだった。
  アリガンはこうなると頑固で、カフェの言葉は届かない。カフェは仕方なく諦めて、そっか、と小さく呟いた。
  夕食の後は特にすることも無く、普段であればカフェはすぐに眠ってしまうが、この日は何故かアリガンを放っておけなく感じて、何かと雑談をして過ごしていた。
  アリガンが知らない地域の事、南にある国の王族の話、東方から来た商人に聞いた神話。そして、明日の天気。
  カフェは思いつくままに様々な事を話し、アリガンはずっとその話を聞いていた。
  そして、商人達の焚き火の数が減り始めた頃。そろそろお休みになってください、というアリガンに、おやすみ、と言ってテントに入ったが、その日カフェはなかなか寝付けなかった。

  カフェがテントに入ってからの数時間、アリガンは焚き火を見つめながら、静かに夜を過ごしていた。
  今アリガンとカフェが加入しているキャラバンは、カッパラを出た時のものと比べて規模が大きい。自然、警備に当たる男の数も多めで、所々でランプの、小さいが強い灯が動いている。
  この夜の月は細いが、それでも炎が照らし出すよりもずっと遠くまで、銀色の世界を照らし出していた。
  焚き火を前にして座っていると、自分が考え事をしているのか眠っているのかわからなくなる瞬間があって、アリガンはその一瞬が好きだった。
  今回の旅も、あと数日を無事に過ごせば終わる。バドが居ない旅は不安も大きかったが、アリガンもカフェもお互いに助け合って、ここまでは意外とすんなりやってこれた。
  バドが居ない分を埋めようと必死になりすぎていたアリガンを、カフェが何度か落ち着かせてくれたように思う。音の無い深夜、アリガンは目を閉じ、カフェに小さく感謝した。
  夜はそのまま更けていき、月が作り出す影はゆっくりと姿を変えていく。キャラバンでは、警備の男達の他はすべて眠ってしまっているようだった。
  こんな夜は、盗賊たちもおとなしく寝ているらしく、動くものはほとんど無い。だが、アリガン達のテントの近くの地面を、ゆっくりと動く影は、確かにあった。
  影は月明かりで染まった世界に溶け込んでいるが、じっと目を凝らして見れば人間が地面にしゃがみ込んだ姿だとわかる。影は音を立てないように気をつけながら、ゆっくりとテントに近付いていた。
  影の姿はテントで隠されていて、焚き火の位置からは見えない。
  影はテントに近付き、入り口を探しているようだったが、焚き火の死角になっている範囲からは中には入れないようだった。
  影は慎重に焚き火の周辺の様子を伺い、そこに誰も居ないことを確認した。だが、
「何かご用でしょうか?」
  口調は丁寧だったが、その声は低く、決して友好的なものではない。
  影は背後からの声に驚きつつもすぐに声とは逆、つまり焚き火の近くへと大きく跳躍した。
  焚き火に照らし出されたその影はどうやら男のようだが、目と手以外の全身を濃い緑色に染められた布で覆っていた。
「何か、ご用でしょうか?」
  もう一度、繰り返された言葉の主は、右手に投擲ナイフを二本、左手に短剣を持ったアリガンだった。その目は鋭く男を見据えている。
  男は腰を低く落としながら、予想外の事態に混乱している自分をなんとか落ち着かせようとした。
  アリガンは男がテントに近寄っている事に気付いて、武器を抜きながら、後ろに回り込んだのだろうが、そのことを男に全く気付かせなかった。この荒野、砂を踏んで音を立てない事の難しさを、男はよく理解している。アリガンがもし声をかける前に自分を殺そうと思っていれば、今自分は確実に生きてはいないのだ。
「僕には今のところ、あなたと戦う理由はありません。僕が納得できる理由を説明していただければ、この武器を振るわなくて済みます。ですが、あなたが何も言わずに逃げる場合、今後のためにやるべきことをやります。……何か、ご用でしょうか?」
  そう言うアリガンの声は低く太い。だが、できれば戦いたくないのだと考えていることが、男にはわかった。
  どうするべきか、ほんの一瞬考えた男だったが、今引き上げれば警戒が厳しくなる。男はアリガンから目を逸らさず、両手に短剣を抜いた。
  アリガンは男の手が動くのを見てすぐに投擲ナイフを投げつけ、テントから離れるように跳躍し、また二本のナイフを右手で抜いた。
  男はアリガンが投げたナイフを余裕でかわし、アリガンに向き直る。
  アリガンは横に飛びながらナイフを投げ、男は今度はそれを鋭い金属音とともに叩き落とす。その一瞬にアリガンは男との間合いを詰め、左手の剣で斜めに切りかかった。
  男はナイフを叩き落とした勢いを殺さず地面を前方に転がってその一撃を避け、アリガンの右後ろに出た。そのまま転がった力を反動にして立ち上がると同時にアリガンの背中めがけて剣を突き出したが、アリガンはその刃が身体に届くよりも早く前に跳び、男の間合いの外で男に向き直った。その右手にはまた二本のナイフが握られている。
  あのナイフがある以上、男はナイフを避けるか叩き落とすか、どちらかの方法で身を守る必要がある。その隙を突くのが、アリガンの戦い方らしかった。
  男はもう一度重心を下げて体勢を立て直し、両手の短剣を握る手に力を込めた。そして一気に足に力を込め、アリガンに向けて突進した。アリガンは男の間合いに入らないよう後ろへ跳躍しながらナイフを投げ、男の足止めを狙った。
  しかしアリガンの予想に反して、男は避けなかった。男は直進する力を殺さずにアリガンのナイフを二本とも叩き落とし、一気に間合いを詰めた。
  アリガンの隙は、ナイフを投げた直後にできる。ナイフを二本同時に投げるのは、相手を確実に足止めするためだった。男はそれを理解したうえで、二本を同時に叩き落とし、ナイフを投げるために伸びきったアリガンの右腕に切りつけた。
  アリガンは意表を衝かれ、的確な判断が間に合わない。咄嗟に身体をよじって男の一撃を避けようとしたが、男の動きが上回った。
  男の剣先がアリガンの右肩に届き、少し遅れて血が滲み出す。男の追い討ちを避けて距離をとったアリガンは、右腕がまだ動くことを確認し、傷に構わず次のナイフを取り出した。
  アリガンが戦意を失っていないことを確認した男は舌打ちし、次は致命傷を負わせるつもりで跳びかかった。だが、
「誰か!賊です!」
  そこに鋭く、女の声が響いた。その声を背中に受けながら、男は攻撃せずにアリガンの横を通り過ぎる。
  振り返ってアリガンと対峙すると、その先にもう一人、テントの側に立っている人影がある。暗くてよく見えないが、声から判断して男装の女性。つまりこの女が、男の標的だった女だ。
  アリガンは物音を聞きつけてテントから出てきたらしいカフェを男から隠すようにゆっくりと移動した。
  物音と声を聞きつけて、いくつかのランプが近付いてくるのが見えた。
  男はアリガンを睨みつけながら、ゆっくりと格闘の構えを解くと、そのまま二歩、後ろに下がり、そして踵を返して走り去った。
  警護の男達がそれぞれランプと武器を手に駆け寄ってきた時には、既にカフェがアリガンの手当てを始めていた。

  夜明けまでには、あと数時間ある。無言で手当てを続けるカフェに右腕を預けながら、アリガンは警護の男達に事情を説明していた。
  説明といっても、ただ襲われた以上のことはわからない、自分達だけが狙われる理由にも特に心当たりは無い、というだけのことで、カッパラからの使者として旅をしている事については黙っておいた。アリガンが使者の事について何も言わないのを、カフェも隣で聞いてはいたが、ずっと無言で手当てを続けていた。
  警備の男達は隊長の指示を受けた後、今夜はアリガン達のテント周辺に常時二人以上の警備を配置することを約束し、全体の警備も増やす旨を伝えた。
  アリガンはその申し出に礼を言って、警備の男達のためにテントの周りに新しい焚き火を二つ作ってからテントに入った。
  カフェは終始無言でアリガンの手当てを終えた後、何も言わずにテントの中で待っていたが、テントに入ったアリガンを見て、急に泣きそうな顔になった。
「びっくりした」
「僕もです」
  短く答えながら、アリガンはカフェの右に座った。
  テントの中は狭く、小さなランプが一つで薄暗い。
「……びっくりした」
「すみません」
  少し責めるような口調で繰り返したカフェに、アリガンは苦笑交じりに謝った。
「もう、大丈夫ですから。手当て、ありがとうございます」
  右腕の傷は動かせないほど深くはなかったが、カフェの手当ては厳重で、傷口が開かないように腕を固定されている。
  謝りながらアリガンは、感謝と申し訳なさと、寂しさに似た感情が混じった複雑な表情で、カフェを見つめた。
  カフェは泣きそうな顔のままで小さく首を振って、
「怖かった」
  と言うと、アリガンの左肩に額を押し付けて静かに泣き出した。
  アリガンは、すみません、と小さく呟いて、カフェが泣き止むまでの間ずっと、黙っていた。
  その夜、アリガンは久しぶりに横になって眠った。

  翌朝、カフェは早めに起き出して朝食を作った。
  干し肉をラクダの乳で煮て柔らかく戻したものを、アリガンが食べられる限界近い量作り、そしてアリガンにほとんど全部を食べさせた。
  その後、食べすぎで苦しんでいるアリガンを座らせたまま、怪我人はおとなしくしていなさい、と言ってほとんど一人でテントを片付け、荷物をラクダに載せてしまった。
  途中、何度も手伝おうとしたアリガンだったが、カフェが本当に楽しそうに働いているのを見て、しばらくの間はおとなしくしていようと思った。
  その日は一日何事もなく夜になったが、アリガンはいつも通りに夜通しでの見張りについた。
  カフェはその事には、もう何も言わない。

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